真光寺の歴史と概観

会長 仲村清彦

真光寺町内会の歴史に関しては1996年(平成8年)11月に発売された「ふるさと真光寺」にくわしい。当時は真光寺町で地名は統一されていた。現在のように真光寺一丁目、二丁目、三丁目、真光寺町と区画整理が実施され名称変更の行われる直前であった。それまでにあった真光寺町内会から都市計画にのっとった新しい街の建設に伴い記録を残そうとして町内会史の発行を行うこととなった。「ふるさと真光寺」は町内会に組織された「ふるさと真光寺を記録する会」が編集執筆にあたり当時の町内会長、榎本義剛(えのもとよしたか)氏により発行された。当初6000円で発売されたが、売れ行きが良くなかったので町内会より当時の会員に全戸配布することとなった。当時の会員はおおよそ500世帯であった。現在では図書館で閲覧していただくか、当時の会員の方から見せていただくかしか内容を知る方法がないのでこの文書を書く次第である。

真光寺は江戸時代には武蔵国南多摩郡真光寺村であった。徳川幕府の旗本領で徳川幕府開設時の地頭は飯田右馬助昌在である。明治維新の時は岡部領、漆戸領であった。石高180石程度の農村であった。

真光寺が文書として記録が残っているのは室町時代からである。しかし遺跡調査などにより縄文後期からの土器や住居跡などが発掘されている。その後、連綿として人が住み続けてきている。真光寺の遺跡調査は鳥居建立に伴う飯守神社と鶴川第二地区区画整理事業に伴う現在の真光寺一丁目、二丁目の区域で行われた。いずれの調査も土地所有者が経費を負担する事業として実施された。その結果も鶴川第二地区区画整理事業にともなう遺跡調査報告書としてまとめられている。ふるさと真光寺にはその詳細が載せられている。

真光寺が文献に現れるのは室町時代初期(三代将軍、足利義満)の1388年(嘉慶2年)深大寺(調布市、天台宗)の僧、長辨が真光寺の再建をするための勧進文が残っているのが最初である。そのときには武蔵国小山田保の真光寺という寺が観音様を祭ってあったという記録とともに、これを再建しようと書いてある。保(たもつ)とは荘という意味である。最初に文献に現れた時にはもう真光寺という寺院は存在していなかったのである。

村落としての真光寺の登場は1477年(文明9年)古河公方、足利成氏の発給した「報国寺目録」のなかにある「武州小山田保下矢部郷真光寺」からである。このときは真光寺が集落として成立していたということである。

真光寺は武蔵国多摩郡に所属していたが江戸時代初期に都筑郡に所属を変更された。1707年(宝永4年)に元の多摩郡に戻されている。これは徳川幕府の旗本支配地の行政区画の問題であろう。隣村の黒川、栗木、片平、麻生、岡上、奈良などは都筑郡に残り、町田市地域が多摩郡に編入された。1890年(明治23年)に真光寺、広袴,能谷、三輪、金井、大蔵、野津田、小野路の8ケ村が合併して鶴川村を造った。当時は神奈川県に所属していたが1893年(明治26年)神奈川県から多摩郡が三多摩(南多摩、北多摩、西多摩)として東京府に移管となった。荏原郡(品川、目黒、鎌田など)豊島郡(新宿、池袋、中野など)もこのときに神奈川県から東京府になり現在に至っている。

飯守神社では鳥居の改築工事のときに遺跡調査が行われ、その時発掘された土器のうちに五領式のものが存在し、古墳時代前期(4世紀後半から5世紀初頭)と推定された。発掘された土師器はすべてが祭祈用土器であると推察されている。したがって飯守神社の場所は古代から聖地として祭られていたのではないかと考えられる。そして現在まで真光寺の鎮守の社として運営されてきている。飯守神社は現在住宅地に囲まれているが、かっては真光寺川とその支流の合流点の水田の中に岬のように突き出した丘の中腹にあった。

鶴川第二地区土地区画整理事業の遺跡調査は真光寺地区14か所、広袴地区2か所の16か所で実施された。この調査では縄文時代から室町前期までの遺跡が発掘されている。残念ながら竹簡などの文献資料は発掘されていない。特に大久保遺跡,三矢田遺跡では貴重な発掘が行われている。縄文時代から律令国家に変転し、平安時代後期から、この地域は小山田の荘として歴史に登場する。このあたりは鶴川村史、町田市史にくわしい。

鎌倉幕府の滅亡は、新田義貞が鎌倉攻めの時1333年(元弘三年)でこのとき、分倍河原の戦いの後で、敗残兵が真光寺三丁目の清龍寺という寺に逃げ込んで焼き討ちに会った。寺はその後再建されていない。ここにはその後、地蔵が建てられた。この地蔵は現在では真光寺三丁目の小野氏の庭園にある。真光寺三丁目は区画整理事業で宅地開発されるまでは清龍寺原(せいろうじっぱら)と呼ばれていた。寺院としての真光寺もこの戦乱の時に焼かれたという説もある。1930年代までは清龍寺原には人家はなかった。

真光寺は観泉寺の土地にあったという説が現在も有力である。江戸時代には現在の観泉寺の参道に観音堂跡があり、これが真光寺の一部ではなかったかと言われている。これは遺跡の発掘調査をやってみないことにはわからない。

室町時代、真光寺の領主は最初は足利氏(鎌倉公方のち古河公方)さらに関東管領の扇谷上杉氏、そして小田原北条氏と変わった。北条氏滅亡後、徳川家康の江戸入府があり旧武田(甲斐)氏の旗本であった飯田氏領となったのである。

応永年間(1394~1430)の時代に森氏、仲村氏などの墓地に板碑(ばんぴ)が残っている。板碑は緑泥片岩(通称 秩父青石)の板状のものに故人の戒名など文字を刻んだものである。

この地域には文章の記録が現れて(室町時代)から一揆の記述などは残っていない。関東南部の温暖な気候と関東ローム層(赤土)と表面の富士山と浅間山の火山灰と武蔵野の雑木林の落ち葉の混ざった黒土に覆われた豊かな大地に恵まれている。それによって谷や平野の部分では水田が造られ、緩い南向きの傾斜地では畑が耕作され、屋敷が営まれた。その他の地域、丘陵の北斜面などでは雑木林や杉、ヒノキの植林が行われた。江戸時代からは柿、クリなどの果樹園や筍や竹細工用の竹藪なども形成された。孟宗竹は食用や大籠、真竹は籠やざる、箕などの材料として使われた。最近では1994年に大変な冷害の年があり米が不作でタイ米などを緊急輸入した年があった。こうした冷害の年も柿が大豊作で江戸の町に出荷すれば収入を得ることができて新年を迎えることができた。夏冷で雨ばかり降ると特産の柿(禅寺丸)が水分の供給が良くて豊作となりよく収穫できる。従って笠地蔵のような民話は成立しないのである。江戸時代には凶作の年には村の代表が代官に年貢の減免を要求したことが一回あるくらいである。さらに昭和30年ころまでは炭焼きが良い冬の産業であった。雑木林を8年に一度くらい伐採して炭焼き窯で焼き木炭を作り燃料としていたのである。当時はチェーンソ-もなくのこぎりで伐採しなければならなかったので、楢や椚があまり太くなる前に切り倒したのである。こうした副業があったので真光寺は豊かでなくとも貧しくはない農村であったといえるであろう。

明治時代となると地祖改正があり税制が変わった。それまでは農地の面積に対して税として米または農産物を租税として納めていた。明治以後は所有している農地の面積に応じて現金で納税するようになった。この税制度は所得税制度が導入されるまで続いた。

さらに国民皆兵の制度が導入され納税、徴兵、教育が国民の三大義務となった。ヨーロッパ列強の帝国主義的世界進出にたいして、西欧的近代国家として日本を明治維新という市民革命によって近代国家として出発したのである。明治維新当時の日本は生糸(絹)と金貨、陶磁器、漆器その他の手工芸品しか輸出するものを持っていなかった。帝国主義の先兵であった英(イギリス)仏(フランス)露(ロシア)譜(プロシャ)墺(オーストリア)米(アメリカ合衆国)など列強が全アジア、アフリカを植民地化した。1920年ころの独立国はアフガニスタン、タイ、イラン、日本、エチオピア、リベリアだけである。中国でも清朝が倒れて中華民国が成立していたが、とても統一国家とは言えず実態は国民党の地方政権で各地に軍閥と列強の租借地などが存在し半植民地状況であった。明治維新後の日本は絹が最大の輸出産業であった。真光寺も昭和の世界大恐慌までは絹の原料の生糸が最大の生産物であった。生糸は蚕という昆虫が繭になり繭の中から糸を吐き出して造る。生糸は八王子、青梅、秩父などの羽二重,縮緬、銘仙などの絹織物として産業化されていた。30年前までは八王子はネクタイの日本一の産地、世界の名産地であった。

町田は「二六の市」ということで原町田が江戸時代から二と六の日に市のたつ町として発達した。鶴川地区は明治期まで府中の商圏に属するといってよかった。幕末に横浜が開港することによって絹の道として通商と交通の重要地点として発達していった。横浜線1908年(明治41年)9月開通が大きい影響を与えた。八王子、高崎間を結ぶ八高線とともに八王子、青梅、秩父、高崎、桐生などで生産された絹織物の輸送ルートだったのである。原町田も昭和30年ごろまでは生糸問屋が存在し盛んにビジネスを行っていた。幕末維新で日本の政治社会状況が変わった。そのご1920年ごろまでは生糸と絹織物が日本の最大の輸出産業であった。第一次世界大戦後の不況から社会構造が変化し、第二次世界大戦で農業国から工業国に変換した。

この間の歴史に関しては所説所論あるのでここでは省略する。明治以後の真光寺住人の戦争における戦没者のみを記録する。第二次世界大戦には真光寺からも多くの人が参加したがここでは戦没者を記録するにとどめる。詳細はふるさと真光寺を参照してほしい。

  1895年 3月 小野慶助  日清戦争台湾澎湖島にて戦病死 飯守神社に記念碑

  1904年 5月 若林六兵衛 日露戦争南山にて戦死 観泉寺に記念碑 勲八等桐葉章

  1904年 6月 若林海助  日露戦争旅順にて戦死 真光寺会館に記念碑 功七級金鵄勲章

  1937年10月 若林規余治 支那事変中支功蘇州にて戦死 功七級金鵄勲章

  1944年 7月 榎本恭徳  支那事変中支湖南省にて戦死

  1944年 7月 若林芳絵  大東亜戦争マレーシア ペラ州にて戦死

  1944年10月 安藤専作  大東亜戦争フィリピン、マニラ沖にて海没戦死

  1945年 3月 榎本萬夫  大東亜戦争沖縄県中頭郡浦添村にて戦死

  1945年 3月 若林岱   支那事変中支、礼陵県山門駅戦闘で戦死 鉄道連隊勤務

  1945年 6月 仲村芳良  大東亜戦争フィリピンにて戦死

  1945年 8月 若林光春  大東亜戦争フィリピンにて戦死

  1947年 1月 榎本一正  大東亜戦争旅順陸軍病院にて戦病死

 以上12名の方が戦争で直接お亡くなりになっている。冥福を祈ってやまない。

第二次世界大戦敗北で東京や横浜などの大都市は焼け野原となった。八王子も8月14日に空襲にあって市街地は焼け野原であった。筆者も1950年(昭和25年)に上野の山の西郷隆盛の銅像のところからから隅田川を見たのをおぼえている。東武浅草駅の松屋と上野松坂屋のデパートだけがビルであとはバラックのような街並みがあった。バラックの街並みの向こうに隅田川が光っていた記憶がある。2011年3.11の津波にあった石巻市の景色がまったく同じような光景でそれを見てショックをうけた。

1950年6月25日から朝鮮戦争が始まって、日本は軍需景気で経済が復活した。それまでは日曜日ごとに鶴川駅から買い出しの行列が真光寺の集落へ続いた。この光景は記憶に生々しく残っている。インフレで物価は急騰していた。農産物を闇値や物々交換で取引をした。朝鮮戦争がはじまると買い出しの行列がなくなった。

1954年から電源開発の西東京変電所の建設が始まった。鶴川駅からのバスが真光寺に通うようになった。1956年に変電所が完成し佐久間ダムからの送電が始まった。「もはや戦後ではない」と時の総理大臣が言った有名な言葉が残っている。

1963年に町田市の都市計画により鶴川団地が住宅公団により建設が始まった。67年から鶴川五丁目の入居が始まった。この区画整理により鶴川一丁目から六丁目が新しい街区として整備された。これが町田市を団地都市とする出発点となった。町田市では市の事業として住宅団地を誘致したのは鶴川団地だけである。それ以外の団地はディベロッパーや公団、公社、都営住宅などの独自の計画である。鶴川四丁目のほぼ半分が真光寺町から移管された。鶴川団地バス引き返し所から国士舘大学にかけての土地はかっては真光寺町であった。丘陵の分水嶺が大蔵町との境界線だった。

1970年代になって鶴川四丁目に鶴川第四小学校が、真光寺三丁目に真光寺中学校が町田市によって建設された。真光寺と広袴の地権者によって現在の真光寺三丁目の区画整理が開始された。真光寺三丁目の町田市の所有地部分に町田市消防団第三分団第六部の詰め所が置かれている。鶴川地区町内会連合会の倉庫もここにある。真光寺三丁目町内会会館もここに置かれている。

1980年代になると鶴川第二地区区画整理組合が成立し、新しい街づくりが始まった。真光寺一丁目、二丁目、三丁目の一部。広袴二丁目、三丁目がその整備区域である。ここには小学校、中学校、幼児教育施設が造られる予定であったが1998年に就学児人口増加が予定を下回るということで建設は見送られた。これによりこの区域は小学校が学区の隅に存在することになった。中学校はほぼ学区の中心にある。今後、学校の校舎を新築するときは小学校と中学校の敷地を交換することが望ましい。当面、現在の市長は学校校舎の耐震補強で乗り切る方針である。しかし鶴川第四小学校の校舎を見てわかるとうり築50年を迎えて雨漏りの応急補修程度の補強工事では運用面からみても不適当である。いずれ新築工事を行わなければならない。その時には真光寺中学校の新築工事も含めて敷地の交換が望ましい。そうすることによって鶴川第四小学校は学区の中心になり一部区域のバス通学補助などは必要なくなるであろう。

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町内は町田市の中央最北部に位置しています。鶴川街道、甲州街道をへて東京都庁のある新宿まで26kmの位置にあります。真光寺はかっては多摩丘陵の中心部にある農村地帯であったが鉄道沿線からも外れ、現在は東京の閑静な郊外住宅地となっています。

多摩丘陵も1966(昭和41)年からの住宅地の開発とともに丘がけずられ谷が埋められ、田畑はつぶされ森林は伐採されて現在のような地形となりました。

1956(昭和31)年の電源開発西東京発電所、1968(昭和43)年の住宅公団(当時、現、都市機構)鶴川団地の入居によって大規模に変わり始めました。鶴川四丁目もかってはほとんどが真光寺の区域内でした。一、二丁目、三丁目の一部及び広袴は1987(昭和62)年からの区画整備が進み、現在の大規模な住宅街に生まれ変わりました。

北・西部尾根は都県境で神奈川県川崎市は、発足時は都築郡で、現在は麻生区となっています。この尾根は川崎側の多摩川水系と真光寺側の鶴見川水系の分水嶺となっています。

北側は建築規制のかかった黒川地区で谷合に畑が広がり、農村の原風景が体感できます。更に北に進むと多摩市や稲城市との都県境にある横山の道にでられます。車は通り抜け出来ないため、かっては真光寺ウオーキングでも歩きました。大学農学部の演習施設もあります。

西側には「かわさきマイコンシティ」の低層のビルが10棟程建っているが研究・設計施設のため騒音や煙・悪臭に悩まされることもありません。その東には小田急電鉄多摩線に沿って閑静な住宅街が続きます。畑作地が広がり、都県境の南寄りには幼稚園から高校までの一貫校である桐光学園があります。

地形的には海抜50mから130mの高低差があり、東・北・西の三方を小高い丘に囲まれた傾斜面と谷戸で構成され、雨水は南東に流れ広袴調整池に注ぎます。ここからは真光寺川になって田畑の灌漑に使われたのち、世田谷町田線と小田急電鉄小田原線をくぐり鶴見川と合流します。合流する手前で河川管理は神奈川県に変わります。川名とはうらはらに真光寺地区では河川と見做されず真光寺川とは呼ばれません。上流の区画整理された区間は鶴川台せせらぎ緑道として遊歩道が整備されています。下流ではボランティアの真光寺川を清流にする会による河岸の清掃が行われ、様々な魚貝類の住む川に戻っています。同会によると真光寺川の源流は真光寺町の和光幼稚園の裏の谷戸あたりとのことです。

また2027年竣工予定のリニアー新幹線は町田市内は全線地下を通過しますが近辺では広袴調整池の下を東西に通過することになります。


コラム
・郷土史の研究には優れた文献であり、「鶴川村史」、「町田市史」、「南多摩郡史」などと共に図書館で参照して頂きたいものである。
タイトル著 者出 版 出版年
鶴川村史鶴川村役場国府 慎一郎1958年
町田市史(上下)町田市史編纂委員会町田市1974~1976年
南多摩郡史南多摩郡南多摩郡1923年
南多摩郡史は近代デジタルライブラリーで読めます。
・真光寺町内会は1996(平成8)年に「ふるさと真光寺」という町内会史を発行して当時の約500世帯に配布した。一町内会が町内会史を発行するということは希有なことであり、その後の鶴川地区の町内会史発行の先駆けとなった。現在では三輪、金井、大蔵などでそれぞれのかたちで町内会史が発行されている。